2017年1月より柴咲コウさん主演大河ドラマ『おんな城主直虎』が始まりますよね。
本作の主人公は井伊直虎(いいなおとら)という女領主なのですが一体どんな人物なのでしょうか?
今回は井伊直虎の生涯を誰でもわかるように説明していきたいと思います!
井伊直虎誕生
井伊直虎(生年月日不明)は静岡県浜松を拠点とする国衆(小領主)である井伊家第22代当主・井伊直盛(いいなおもり)の娘として生まれます。
彼女はのちの井伊家の領主となり、24代宗主・井伊直政(いいなおまさ)の後見人となります。
ちなみに、第23代宗主は直政の父である井伊直親(いいなおちか)ですが、直虎は女であったために宗主となることはできませんでした。
もし仮に直盛から男児が生まれていたらその子が23代宗主になったのですが、残念ながら男児には恵まれなかったため結果的に傍流の井伊直親が井伊家を継ぐことになります。(詳細はのちほど)
愛する者との別れと出家
当時、井伊家は今川義元に従属しており、直盛に男児がいないことは家が存続できないと心配の種になっていました。
そこで第20代宗主である井伊直平(いいなおひら)はある決断をします。
「このまま直盛(22代)に男児が生まれなければ、娘の直虎と、傍流の井伊直親結婚させて、直親に井伊家を継がせる」
しかし、これに対して、井伊家の家老・小野和泉守政直が反発し次のように発言しました。
「直盛の娘である直虎の婿にも、今川氏の縁者を迎えるのがよい」もしくは「自分の息子である小野但馬守政次を、直盛の娘の婿にすればよい」
小野和泉守政直は井伊家の家老ではありますが、今川よりの人間で今川・小野の利益のために井伊家を乗っ取ろうと画策していました。
さらに、今川義元に対して
「井伊直平の子の直満・直義兄弟が、武田信玄に内通している」
と密告します。
直満・直義兄弟(直盛にとって伯父にあたる人物)は弁解のために今川氏の本拠地・今川館に出向きますが結局切腹させられます。
そして、殺害命令は直満の息子である直親にも出されていました。
このとき、直虎と直親は婚約していましたが、今川家に追われているため逃げないわけにはいきませんでした。
直親は『病死』と偽り、渋川の東光寺に身を隠しますが、直虎は彼の死を聞き深く悲しみます。(直虎はこのとき真相を知らなかった。)
彼への愛を貫くと決心した直虎は断髪し、出家することを申し出ます。
直親が生きていることを知っていた直虎の両親は彼女の出家に反対しますが、結局、龍潭寺に出家することとなります。
なお、この一件は流派こそ異なるが太原雪斎(今川家の軍師とされる僧侶)と同じ臨済宗妙心寺派の南渓和尚が考えた「策」であったことが後に分かる。
愛する者との悲しい再会
転機が訪れたのは天文23年(1554)
この年、武田信玄・北条氏康・今川義元が三国同盟を結んだため井伊直親が信州から帰国します。
というのも、直親をかくまっていた松岡氏が武田家に従属し、さらに今川義元に密告をした小野和泉守政直はすでに死んでおりこれ以上逃亡を続ける理由がなくなったためです。
ようやく再開する2人ですが、直親にはすでに別の女と結婚し、すでに子供をもうけていました。
これに対して愛を貫いていた直虎は失望し、また嫡流の娘が傍流の男の側室になることは恥だと思い直親との結婚を諦めます。
そして、井伊直親は直盛の養子となり次の宗主の第一候補に躍り出ます。
桶狭間の戦いと父の死
井伊家に悲劇が訪れます。
直盛はとても強い武将で桶狭間の戦いにて大将も務めますが、皆さんご存知の通りこのときに今川義元が織田信長に討たれます。
そして、直盛も他の家臣たちと共に切腹を命じられ、その首は直虎たちのもとに運び込まれました。
これを見た直虎と母はさぞや驚愕したでしょう。
虎松(後の井伊直政)の誕生と直親の死
父が死ぬという悲劇がありましたが、それと同時に新しい命が誕生します。
直親とひよ(帰国した時の女性とは別)との子供で名は虎松。
後の井伊直政で徳川四天王と呼ばれる人物です。
しかし、またもや井伊家の家老である小野政次が今川氏真に対して、井伊直親が松平元康と内通していると密告。
小野政二はすぐに討伐軍を送ろうとしましたが、『まずは問いただすべき』と諫められます。
誤解を解こうと今川氏のもとに向かう直親ですが、今川家の重臣・朝比奈氏に取り囲まれ殺されてしまいます。
虎松は幼くして父親を亡くしてしまいました。
四面楚歌・井伊家の滅亡
悲劇はまだ続きます。
父親が死んだ虎松ですが、彼自身にも殺害命令が下ります。
これに対して虎松の叔父にあたる新野親矩が必死に助命を懇願。なんとかして死を免れます。
しかし、虎松の曾祖父にあたる人物で井伊家のご意見番であった直平が急死!(直平の死に関しては陰謀論など諸説あり)
さらには虎松の助命を懇願した新野親矩、味方の中野直由までもが戦いによってなくなり、ついに井伊家はほぼ女しかいない状態になりました。
そこで、直虎の母・祐椿尼と南渓和尚が話し合って直虎を虎松の後見人にすることを決定しました!
こうして、彼女は井伊家の地頭となります。
それでも、虎松を支えるのは彼の実母のひよと直虎、祐椿尼の3名のみ。
直親の殺害のきっかけとなった小野政次が虎視眈々と井伊家を狙います。
とてもかなう相手ではありませんでしたが、直虎には政治的手腕があり借金をチャラにする徳政令などを発行し、地頭職を罷免され、井伊領も小野氏のものとなりますが、虎松たちの命を守ることに成功します。(虎松たちはこの時点で出家します。)
井伊領を手に入れた小野氏ですが、彼にも悲劇が訪れます。
小野政次や今川氏真のやり方が気に入らなかった井伊谷七人衆のうちの3人(後に「井伊谷三人衆」と呼ばれる宇利城の近藤康用・柿本城の鈴木重時・都田城の菅沼忠久)は、密かに徳川方に寝返り、年末の家康の遠江侵攻時には、道案内を買って出ている。
そして、いざ井伊谷城攻略が始まると、小野政次はスグに城から逃亡。戦わずして陥落し、翌永禄12年(1569)4月には徳川方に捕えられて処刑された。
井伊谷燃ゆ
小野氏たちが死に、井伊領は徳川家のものになりますがそこに武田家が大群で攻めてきます。
さすがの徳川・織田軍もこれには狼狽。
勢いある武田軍はどんどん進軍し、途中にあった井伊谷を焼けはらいます。
さらに、直虎たちが出家していた龍潭寺も全焼します。
井伊家の再興
天正2年(1573)、直親の13回忌に際して虎松が井伊谷に帰国します。
そこで直虎(祐圓尼)は南渓和尚と相談し、そのまま虎松を母親の再婚相手・松下氏の養子に出す。
ここにおいて約600年間続いていた名門・井伊家は絶え、「松下虎松」が誕生したのだが、もちろんこれには狙いがあった。
松下氏は徳川家の家臣だったので、家康に仕官させようと考えたのだ。
そして天正3年(1574)2月15日、初鷹野(その年の最初の鷹狩)に出た家康を狙い、直虎はある仕掛けを施す。
直虎と実母の2人があつらえた着物を着させ、遠くからでも目立つように直虎の自画・自筆による『四神旗』をもたせたのである。
首尾よく家康の目に触れた虎松が浜松城へ連れて行かれると、そこで今川の人質時代に桶狭間で共に先鋒を務めた井伊直盛の親類かつ養子であり、自分に内通したために誅殺された井伊直親の実子と知って驚き、
「井伊直親の実子、取立不叶(取り立てずんば叶わじ)」
(家臣として召し抱えないわけにはいかない)と言って300石を与えたという。
さらには井伊家の再興を許し虎松に対して『井伊万千代』と名乗らせます。
この井伊万千代がのちに徳川四天王となり、彦根藩の藩祖ともなるのです。
井伊直虎の最期
徳川家に仕え、褒美を賜っている直政の姿を見た直虎は安心したのか天正10年(1582)8月26日に亡くなります。
墓と位牌は現在の妙雲寺にあります。
今回の井伊直虎の生涯についてわかりやすいようだいぶ簡潔に書きました。
ドラマ『おんな城主直虎』ではこれらのことを1年通して放送します!